かんばんは、浩二です。
先日、ラルクアンシエルのドキュメント映像を観る機会がありました。
音楽という表現の裏にある、メンバー同士の“人間関係のリアル”が赤裸々に語られており、
とても印象深い内容でした。
✔ 創作と責任とプライドと
「1999年頃から、提案があっても牽制し合うようになった」
「“良い”や“悪い”を言ってしまうと、それが責任のある“作品”になってしまうから、友達のノリではできなくなった」
これは、誰かが一歩踏み出したとき、その責任が“個人”にのしかかってくる現実を語ったもの。
チームであるはずのバンドが、意見の発信に慎重になり始める。
一歩間違えれば、“会話のない共作”になりかねない――そんな危機感すら漂っていました。
✔ 言葉ではなく、「音」で会話するということ
印象的だったのは、「言葉で語らなくなった」というエピソードです。
直接意見をぶつけることが減り、音で返す。
会話をするように、音で感じ取る。
それは、衝突を避けるための選択でもあり、音楽という手段を選んだ彼らの根源的な表現スタイルなのかもしれません。
あるメンバーは言います。
「コミュニケーションが得意なら、音楽で伝える必要はない。
そうじゃないから、あえて〈音楽で会話する〉仕事を選んでいる」
言葉で伝えるより、音のぶつかりでわかり合う。
それは不器用だけれど、だからこそ本音のやりとりが成り立つ。
言葉では伝えられない繊細な感情が、“音”という形で交差していたのかもしれません。
✔ 「大人」として、握手する力
「みんな子ども。自分を曲げない」
「でも僕は大人。受け入れられないことも含めて握手できる」
創作というのは、どうしても“自分の色”を大切にしたくなるもの。
でも、それだけでは前に進まないときがある。
自分のこだわりを持ちつつ、相手のこだわりにも耳を傾ける――それは、まさに“握手”の瞬間。
こだわりを貫くことと、こだわりを手放すこと。
その間で揺れながらも、笑って次へ進もうとする姿勢は、まさに大人の矜持のように見えました。
✔ 岡本太郎が4人いたら?
「岡本太郎が4人もいたらバンドは成立しないでしょ?」
これはユーモラスなようで、非常に本質的な言葉です。
情熱や個性が強い人たちがチームを組むと、ぶつかるのは当然。
でも、それをどう受け止め、どう着地させるか――そこに“人間関係の成熟”が必要になります。
✔ 音の中にある、看板のヒント
ラルクのドキュメントを観ながら、ふと考えました。
私たちの仕事――たとえばサインや看板づくりにも、
“言葉にならない何かを伝えようとする感覚”があるのではと。
一枚のサインが、
誰かの主張だったり、
無言のメッセージだったり、
場の空気そのものを表していたりする。
音楽が音で会話するように、
看板もまた、街と人との間で交わされる「静かな対話」なのかもしれません。
多少ムカつくことがあっても、笑って次へ。
こだわりを持ちつつ、音で会話し、握手する。
今日もまた、私たちの仕事は“言葉ではない何か”と向き合っています。
沖縄で看板を制作したい方いましたらエーツーサインまでお声掛けください。